土砂降りの雨の中、男は立ち尽くしていた。行くべき場所もなく、ただポケットの中の小さな紙切れを握りしめている。
『お前はお前のままでいい』
それは、亡き父が生前に書き残した言葉だった。だが、その意味を男は理解できなかった。
仕事を辞め、長年の恋人とも別れ、人生の全てがぼやけていた。自分が何者なのかさえ分からなくなっていた。
ふと、目の前の古びたバス停に腰を下ろす。雨が地面を叩く音だけが響いていた。そこへ、見知らぬ老人が隣に腰を下ろした。
「何か悩み事か?」
男は苦笑した。
「人生に迷っているだけです」
老人は静かに頷き、ポケットから懐中時計を取り出した。
「この時計、もう動かなくなったが、わしにとっては大切なものだ。時間が止まっても、それがわしの人生を刻んだ証だからな」
男は黙ってその時計を見つめた。
「…俺も、そんな風に生きられるでしょうか」
老人は微笑んだ。
「美しさは、あなたが自分自身であると決めた瞬間に始まる。時間が止まっていても、迷っていても、自分を受け入れることから始まるんじゃよ」
男は驚いたように顔を上げた。その言葉は、父の言葉と重なって聞こえた。
しばらくして、雨が上がった。男はポケットの紙をそっと広げ、改めてその言葉を見つめる。
『お前はお前のままでいい』
その瞬間、男はゆっくりと立ち上がり、歩き出した。行くべき場所はまだ分からない。それでも、今はそれでいいのだと、初めて思えた。
コメント